2019年7月/「自分以外のために」をしない

こんばんは。

7月中旬までは涼しく雨が多かったけれど、下旬は真夏のような暑さだった。

 

今月はとてもハードだった。例えば、動機が「自分が興味がある」「自分のため」ならば使える時間の全てを使っても全く不快感を感じないタイプなのだが、まったくそういうことではなかったので大変消耗した。

 

私の揺るがぬ信条として「100%他人のためということは、しない」というものがある。今月はそれを破ってしまって大変な思いをした。もっとも「100%他人のため」であると気づいたのは終わってからであるから、正確には「誤って」破ってしまった、ということになる。

これはその人の性格やキャパシティにもよると思うが、私は他人の為に犠牲を払うような「キャパシティ」に関してはほぼ0に等しいので、こういう信条が自分にとっても周りにとってもより良いと経験的にわかっている。そもそもこの「キャパシティ」は、大体の人が実際より多めに見積もりがちなんじゃないかなと思う。その結果「あなたのためにやったのに」みたいなことを言ってしまう結果になる。これは、とても嫌いな言葉の一つである。

また、「100%他人のため」ということは実は少ない、という意味も込められている。例えば親が「子供の将来のため」というのも100%子供のためではなく、親として安心するため・自信を持つため、周りに自慢するため(?)など、自分のためである割合はそれなりに大きいと思う。これは自分を取り巻く物事のほとんどに対して同様のことが言える。

つまり「100%他人のためということは、しない」というのは、自分のためになることしかしないというよりは、自分でそういう行動原理に従って行動したはずだから、後で自分以外のためだなんて言うのは禁止しよう、という意味合いが強い。

 

だから今月は本当に失敗した。もしかしたら誰かに強く当たってしまったかもしれないし、それは本当にあってはならないことだ。

就職すれば最低でも報酬は発生するため、こういうことは少なくなる気がする。でも細部を見ていけばこういうことはあるだろうし、仕事仲間や研究室の人々については友人と違って「好きだから一緒にいる」というような自分の利益にあたる部分の一切が削げ落ちているため、こういう行動原理を叩き込むのは今のうちに訓練しておきたいところだ。

 

 

2019年7月のプレイリストです

https://music.apple.com/jp/playlist/2019%E5%B9%B47%E6%9C%88/pl.u-6mo44y8ijR3ZM4

 

 

 

とはいえ、そうやってバタバタと7月を過ごしたおかげで色々ひと段落つく目処が立ったので、8月に入ったら少しずつ院試の勉強を始めたい。

2019年6月のプレイリスト

こんにちは。

 

私の年齢を明記はしないが、選択を迫られる年代ではある。そんな年代であるからこそ、近頃は同級生の変化に考えさせられることが多かった。

 

女性も大変だが、男性も大変だ。男性は、学生時代までどんなに飄々としていた人であっても殆どの人が、世俗的な正当性のあるレールを目指さざるを得ない時期がやってくる。そこに素直に乗れる人ほど無用(というのは無神経かもしれないが)な摩擦で磨り減らず、楽かもしれない。だから親しい人にほど(本人が望んでいるならば)そこに抵抗なく乗れたらいい、と願うが、それについて寂しさもなくはないのだ。

(女性に対してのこういう寂しさは、もう少し後でやってくるのかもしれない。なぜなら女性のそれの多くは男性経由で起こるからである。)

女性の絶望が、(以下、全て勝手な想像の為的外れな可能性有)女性として自分が痛い思いをしない限り血縁関係の子息は発生しない、というところにあるとすれば、男性のそれは上述のようなことかもしれない。一切の例外が無いという点では女性の方が厳しいかもしれないが。でもどちらが自由かと言われると迷う。まったく見当もつかない。なぜこんな比べ方をするかというと、生まれてこのかた、自分にとっては精神の自由が最重要だからである(これに並ぶものがあるとすれば、健康のみ。愛は精神の自由に含むとする)。

(しかし男女の比較など全く意味はなく、ただふと思っただけのことなので、このまま放置する。)

私は私で、自分にとって良い状態を維持する方法を模索し続け、人生の重要な転換期を経てそれぞれに変わっていく大事な友人達には、どんな形であっても本人にとって幸せであってほしいと願っている。そうなることで、私の個人的な・自分勝手な寂しさも紛れるだろう。

 

 

2019年6月のプレイリストです

https://music.apple.com/jp/playlist/2019%E5%B9%B46%E6%9C%88/pl.u-leyllvJu3dExB9

 

 

大学が忙しくなってきた。

 

 

 

 

 

2019年5月のプレイリスト/アウト・オブ・タッチ

こんばんは。

 

ゴールデンウィークに家族で福島に旅行に行った。車で移動している時間に、弟2がポリス、エア・サプライ、ホール&オーツ、などの懐かしい曲をかけた。エア・サプライのロスト・イン・ラブが流れると弟1も弟2も当たり前のように歌詞を完璧に覚えて歌っていて(弟3はゴールデンウィーク中も毎日部活があるため不在)、この家の通過儀礼のようだなと思った。旅行は楽しかったので、ゴールデンウィークが明けてもこれらの曲をたまに聴いて旅行を思い出していた。

 

私はホール&オーツのアウト・オブ・タッチが好きである。プライベート・アイズやリッチ・ガールやウェイト・フォー・ミーよりも。いや、みんな同じくらい、すごく好きなのだが、アウト・オブ・タッチは好き嫌いとは別に、思うところがあるのだ。

 

幼少期の私は、当然ながら車内オーディオの主導権は握っておらず(今は弟2が全てを掌握している)、両親が時系列を無視してぐちゃぐちゃに聴いている曲を、時系列が不明なままぐちゃぐちゃに聴いていたし、私は生まれていないような時代の曲が多かったから、この曲は当時すごく売れたとか、人気があったという感覚もない。しかし私は大体このバンドがどのあたりでこの曲を書いたとか、どの曲が特に人気があったかは大体わかった。特に、曲を書いた時期についての予想は本当に正確だった。そして私はきまって、バンドが彼らの活動の後半で書いた曲を特に好きになった。これは好きなバンドほど顕著だった。

 

先ほど例に挙げたホール&オーツの4曲の中で、1番後にリリースされたのがアウト・オブ・タッチである。この曲は「熟成」「結集」という言葉を連想させる。ちなみに他の3曲は「直感的」あたりだと思う。

 

長く続いたバンドには流れがある。私の知る限りでは、長く続いたバンドの最大のヒット曲がバンドの終了間際にあるということは少ないような気がする。そして最大のヒット曲となる曲は「直感的」な曲が多い。

 

音楽の楽しみ方は人それぞれだろう。作った人間・メディアなどのバックグラウンドを考えず、単純に曲の良し悪しのみに焦点を当てて音楽を聴く。これはとても正しい。しかし自分はあまりこういう楽しみ方ができないのだ。映画のサウンドトラックを聴けばその曲が流れていたシーンを思い出すし、歌詞の意味やバンドの流れをそれとなく感じて感情移入してしまう。感情移入しないわけがないのだ。

 

アウト・オブ・タッチにはそういう感情移入をさせる力がある。泣かせるような曲調だとか、そういう話ではない。流れを感じるのだ。その曲単体でみれば全然そんな曲じゃないのになぜか終わりや集大成を感じる。バンドとして熟成されて、今まで積み上げたものを全て結集させる。迷わず走り抜けるのではなく、注意深く歩く。バンドの曲を隅々まで聴くと、不思議とこういう流れを感じる瞬間がある(何度も言うが、曲調が感動的だとかそういう問題ではない)。

 

「熟成」は、ホール&オーツでいうとアウト・オブ・タッチだし、エア・サプライでいうとスウィート・ドリームスだと感じる。「熟成」には、例えば普段とは違った試みをしてもうまく形になる、安定感みたいなものも含まれている。注意深く歩くのだ。

 

「直感的」は、ホール&オーツでいうと他に挙げた3曲だし、エア・サプライでいうとロスト・イン・ラブやオール・アウト・オブ・ラブあたりだ。「直感的」は、「個性」や「才能」とも近い。とにかく彼らが元々持っていたものの割合が大きいように感じる。ちなみに弟2はどのバンドについても私が「直感的」に分類している曲が好きである。

 

ポリスについてはちょっと話が別である。ポリスにエブリ・ブレス・ユー・テイクという曲がある。私はこの曲はバンドの初期に書かれたものだろうと長い間思っていたのだが、実はバンドが終わる間際に書かれたものだそうだ。しかもポリスの最大のヒット曲らしい(と父に聞いた)。

 

ポリスはとても「熟成」されたバンドだった。例えばドラムのスチュアート・コープランドの演奏にはまさにこの言葉がぴったりだ(もっとも、技術的なことはドラムについてしかわからないが)。1000年くらい生きた人のドラムを聴いているように感じる。上手い、とも、センスがある、とも少し違う(もちろんとてつもなく上手いしセンスがあるのだが)。やはり「熟成」がぴったりだ。

 

そして、ポリスには生きた「流れ」みたいなものが感じられない。ポリスの好きな曲をあげるとしたらシンクロニシティ2だが、メッセージ・イン・ア・ボトルのようにリリース年がかけ離れている曲とも同じような雰囲気を感じる。聴いていて同じような気持ちになる。確かに、1000歳の人が書いた曲と、その人が1010歳になって書いた曲が大きく違うことはないのかもしれない。少なくとも20歳と30歳ほどの相違はないだろう。

 

ところで、私はなぜ「熟成」が好きなのだろう。これは、私が音楽に求めているものを顕著に表しているはずだ。

 

おそらく、未来に希望を持ちたいのだと思う。とても単純な答えだ。今日より明日が良くなって欲しい。無い物ねだりをしない。だから努力したところで手に入らないような「直感的」よりも、バンドも終わり間際になり、「直感的」が出てこない、でも自分たちが今持っているもの、積み上げてきたもの全てを掻き集めて作った「熟成」に惹かれるのだと思う。もちろん私も楽曲として優れているとか、完成度が高い、みたいな視点は別のところに常に持っているが、楽しんでやっているわけではない。それは勉強するのと大体同じ。純粋に楽しんでいる・充実感を感じるのは、その前に散々述べた方の聴き方だ。

 

2019年5月のプレイリスト

https://music.apple.com/jp/playlist/2019%E5%B9%B45%E6%9C%88/pl.u-RRbVVKJt1D7xdZ

 

ところで、今週末に日本ダービーを見に行く。このレースの結果次第で秋にフランスに行けることになる。フランスに行けることになったら、2019年5月は完ぺきだ。

 

 

 

 

 

 

弟2

弟2は私の4歳下で、実家で飼っている犬とよく名前を呼び間違えられている。

背は低く、坊主頭で、すごいマッチョである。顔は誰かに似ていると思ったことはないが、私のピアノの先生によると「横顔が瑛太にそっくり」らしい(家族全員で大爆笑した)。確かに鼻はとても高く、それ以外のパーツは控えめで、横から見ればそう見えなくもない。

言葉で説明するのは難しいが、他に似た雰囲気を持つ人に出会ったことがないくらい、独特の雰囲気を纏っている。私が旅行先で撮った写真に度々(偶然)映り込むが、どの写真もなんとも言えない表情やポーズをしていて、別の星から来た人みたいである。

また、弟1と同様にとても運動能力が高い。家族内の懸垂回数最高記録保持者である(実家に懸垂棒がある)。体育祭でリレーの選手によく選ばれていて、アンカーで走っている姿も何度か見た。長距離走もかなり速い。球技もセンスがあってだいたい上手くできる。野球部だったので、特に野球が得意なようだ。でも運動ができそうな雰囲気はまったく感じられない。とにかく別の星から来た人のような独特の雰囲気を持っている。

そして80年代?くらいの音楽に異様に詳しい。老夫婦が2人でやっている喫茶店とかで流れているような曲を全部知っているので、外食をするときなんかは一緒に連れて行くと吉。

他に好きなものは相撲などのスポーツ観戦全般、地図、ポケモン、最近は戦車も好きなようだ。記憶力が常人離れしていて、好きなことについては(上述の音楽然り)、まるでデータベースのようである。

 

弟2はある点において標準的な人とは一線を画している。その「ある点」のために、弟2が存在したか否かで私の価値観・人生そのものが180度違っていたことは間違いない。これは誰もが得られる財産ではない。弟2には、どんな場所でも、いかなる窮地に立たされても戦い抜ける武器をいくつも授けてもらったと思う。私の心の安定と自信の一部には常に弟2の存在がある。

 

実は兄弟の中で一番よく一緒に遊ぶのが弟2である(ちなみに一番よく話すのは弟1である。なぜなら弟1は絶え間なく話しかけてくるから)。最近では週末はほぼ毎週2人で水泳をしに行くし、ポケモンの新作が出ればダブルパックを買い2人で1つずつ分け合って遊ぶ。他に、ボウリングや卓球にもよく行く。

弟2は家族の中で最も日々変化する。年下の弟3よりも。よって私の認識が弟2に追いついたことはない。常に精神の拡大を余儀なくされてきた。自分自身の理解の外の更に果てのような人物(拡大すれば、人物に限らず何においても)が存在するということを毎日肌で実感する。人は誰しも、少し油断すれば自分の物差しで自分以外を測るという愚を犯してしまう。自分が標準的であると認識している人ほど、これは確かに手軽で確実な手法なのだ。しかしこの手法の危険性は常に意識しなければならない。(良い意味で)標準的な人に囲まれて平穏な日々を過ごしていれば、この危険性に対する認識は段々と薄れていく。これが薄れたときに気付けば落とし穴に嵌り、自分も相手も消耗する。自分自身の理解の外の更に果てのような存在に出会ったとき、その存在とどう向き合えるか。最善を尽くすにはあらゆる学びが途方も無いほど必要だろう。しかしこれが上手くいけば互いに価値ある充実が得られる。私はこの目的地を知っている。この目的地こそ弟2から授けられた財産そのものである(前述の「武器」の具体例のひとつである)。

 

終始抽象的な話で申し訳ないが、「弟1」の記事で述べた「穴を埋める作業」に例えれば、弟1からは穴を探すこと、弟2からは穴(を含めた全て)を探す視野を更に広めること、を学んだと思う。(そして後述する弟3からは、穴を埋めた場所の上に更に高い山を作ることを学んだ。)

 

写真は今日弟2と出かけたときに入ったタリーズ柏店で撮った写真

 

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弟3に続く

弟1

弟1の特徴を簡単に述べると、素直で明るく、すごくバカである。背は低いが、顔だけ菅田将暉にとても似ていて、驚異的な運動神経を持っている。性格は、これらの先天的な素質がもたらした後天的なものかもしれない。どうしようもなくバカだが公立中学時代の成績は100人中10番目くらいで、きわめて悪いというほどではなかった。

 

弟1は、外見も含め、私と重なる部分が殆どない。家族の中で最も自分と遠い(むしろ血が繋がっていないと言われた方が納得できるくらいである)。よって私の弟1に対する全ての推測は誤りである可能性が高い。私と弟1は基本的に何一つ理解しあえず現在に至る。弟1に限って言えば、高校生くらいまでは私が話す言葉の意味を半分も理解していなかった。こいつはなんでこんなにバカなんだと苛立つ日々であった。また、私から見ると無神経な人間でもあった。母が作った料理を「おれはこれ嫌いって言ったじゃん」とよく言っていて、その度に私は苛立っていた。嫌いなのはお前の落ち度なのに、母の落ち度みたいに言うなよ、と。弟1は周りに気を遣えず自己中心的に見えたが、両親はそれについて叱ることはなかった(料理のクレームについても母はニコニコしてスルーだ)。幼少期の私にとって、両親の寛大さと弟1の奔放さは最高に相性が悪く、途方にくれる毎日だった。高校生くらいまでに自分が抱く嫌悪感・苦手意識のシリーズはほぼ網羅され、現在に持ち越されていると思うが、その殆ど全てのルーツが弟1にある(年下、理解力のない人、頭が悪すぎる人、など)。

 

しかし、客観的に見て弟1は善人であった。人の悪口を言わず、人を攻撃せず、老若男女関係なく皆から好かれていた。おそらく全世界で弟1を嫌いなのは自分くらいだと思う。注意深く観察すると、人の感情の揺らぎをよく察知し、人が不快感を感じ始めるところですぐに方向転換する能力があるとわかる。人との距離感をはかるのが上手い(これは父親もよく弟1の長所として挙げていたが、私は長い間気付けずにいた)。

 

私は、特に中高生の頃は、自分の欠点を機械的に埋めていく作業を続け、表面上は大きすぎる穴は(私に見えているものは)大体埋まってきたように思えるが、弟1との関係については依然として大きな課題が残っていると感じる。問題は、弟1はおそらく私のことを嫌いではないし、弟1を嫌いな人間もいない、私だけが心が狭く未熟だという事実を弟1の存在が常に発し続けているということだ。

 

実家を出てからは、実家に帰ると弟1と寝室を一緒にされている。そこでよく話すようになった。ある日、通っていた小中学校の話になり、弟1がいじめられていたという話を本人から聞いた。話を聞く限り嫉妬によるものだと思う。スポーツならちょっとやればなんでも学校で1番くらいにはなるし(サッカー部でも、たった1人下級生なのに試合に出ているとか、そういうことばかりだった。本人は嫌がっていた)、勉強も上位10%くらいの成績だからできないわけではない。私も弟1が苦手とするものを正直1つも思いつかない。極め付けに顔は菅田将暉だし。

弟1は幼少期、本当に笑わない子供だった。目は大きくつり上がっていたので、子供なのに怖い顔で、刺青を入れた知らない男の人にいい目をしていると褒められることもあり、両親は本気で心配していた。しかし小学生の頃にはとてもよく笑う子になっていた。皆が部活でレギュラーになりたいと言うなか、いろいろ理由をつけて下級生なのに試合に出るのは嫌だと言う。そして成績のわりにすごくバカに見える。これら全てが自分の身を守るために、友達と楽しく過ごすために選ばれた道だったら?その日弟1と話した時に初めてこの可能性に思い当たった。同じ小学校、中学校に通っていたし、2歳下だから同時に在学していた時期も長いのに、いじめられていたことにも気付かなかった。私は私自身の洞察力のなさをまず問題視するべきであった。

この、いじめられた話ひとつとっても私には違和感だらけだった。私は、もし自分に害をなす人間があれば、直接攻撃はしないが相手が私を攻撃したことを深く後悔する道を必ず用意し必ずその道を歩かせるだろう。少なくとも自分が我慢して終わるという道はまず選ばない。だが弟1はそういうやり方はしないのだ。弟1がそういうやり方をしないせいで一方的に損をするところを何度も見てきた。でも弟1はそういう生き方をやめないのだ。そういう人間の生き方にこそ学ぶべきものはあるのではないか。

 

なんにせよ、弟1について何かを決めつけるにはあまりに早すぎた。

よく考えれば、高校生くらいまで会話が成り立たないと感じていたのも単純に年齢差のせいかもしれないし、無神経に思われる発言にも弟1なりに意図があったかもしれない。勝手に決めつけて歩み寄らないのはいつも私の方だった。

 

まとまりのない長い文になってしまったが、結局、弟1は一言で言えば、「いつも間接的に私の欠点を示唆する存在」である。だから今でもあまり好きになれないが、少なくともそれを弟1のせいにするのはもうやめようと思う。

 

弟2に続く

 

記憶喪失

ゴールデンウィークなので実家にいる。

 

実家で母が一日中、実家を出た子供達の持ち物を整理していた。私の学生時代は、小学校時代は穏やかな日々で概ね良好、中学時代は特に良い思い出は無し、高校時代は穏やかな日々ではないが概ね良好、というおおまかなイメージが自分の中であった。しかし、母が私の持ち物を整理しているのを見て、実はそうでもなかったということを思い出した。

 

天は二物を与えずという。ならば私に与えられた一物とは何か。将来に役立ちそうな特技や才覚として与えられたものは特に心当たりはない。だが性質的なものなら、嫌な思い出がほとんど記憶に残らないという性質は自分を生きやすくしてくれる大きな長所の一つだと思う。

 

しかしこれは本当に良いことだろうか。例えば自分に非がなく一方的に被害を被ったことならば、さっさと忘れるのが一番良いだろう。しかし、自分に非があった場合は?例えばいじめっ子が、自分がいじめっ子であったことを忘れてしまうみたいに。反省の機会を失ってしまうことは長期的に見れば自分自身にとっても損である。特に、重要な事柄に対して脚色された記憶が残るのはいかがなものか。

 

正直、小中学校時代に対して脚色された記憶が残っているというのはとりあえずどうでも良いが、身近な人に対してはそれでは問題がありそうだ。実は何度も問題があると感じたことが既にある。主に、家族間での会話の中であまり良くない過去の話をするときだ。

 

家族に対する認識は(それぞれの地点に対しての明確な記憶は既にないが)、めまぐるしく変化しているという感覚がある。これはほとんど家族ではなく、自分自身の問題ではあるが、だからこそ重要であると考える。

 

そこで、自分の家族についてこの地点における認識を記録しておこう、と思う。両親については、未だに不明点が多い上に、対等な存在ではないから書けることは殆どない。しかし弟1〜3は、母の腹から出てきた時から知っているし、最も長い時間を過ごし、最も自分自身の人格形成に影響を与えたと思うから、書けることも書いておくべきこともたくさんありそうだ。だからこの後で弟1〜3について、この地点での認識を書いていこうと思う。弟1〜3はそれぞれ魅力的な人物なので、皆さんへの紹介も兼ねて、これらの文章は公開することにする。

 

 

 

 

2019年4月のプレイリスト

こんばんは。

 

最近は、自分の周りも自分自身も過渡期に入っていると感じる。1年後の自分が何をしているのか全く見当もつかないが、よく分からない将来のことを考えるのも心地いい。もっとも、生まれてこのかた未来のことを考えて楽しくなかったことがないからわざわざ書いておくようなことじゃないかもしれないけれど。

 

父と、天国と地獄はどこにあるのだろうかという話をした。私は今まであまり興味が無くて深く考えたことがなかった。というか、純粋に占いや風水的なものをそこそこ信じる両親と比べると、私は唯物的な考え方をするので、そういうことを考えるのに意味があるとも思っていなかったが、父の考えは面白かった。決してスピリチュアルな話ではなく、きっとそうだろうと深く納得したし、父の人生観と自分の人生観とで近いものを感じて面白かった。内容は多分忘れないので、面白かったということだけ記録しておく。

 

2019年4月のプレイリストです

https://itunes.apple.com/jp/playlist/2019%E5%B9%B44%E6%9C%88/pl.u-vxy66DBC6vD1G4

 

 

 

先日、中学生の頃にお付き合いをしていた人と2人きりで、夜中にプールに浮かんで何時間も話す夢を見た。多分、小学生の頃北海道旅行で泊まったホテルにあった、端から波がドンドン出てくるプール。全面ガラス張りの壁から月明かりがさしていたから照明は点けず、薄暗いプールにひたすら浮かんでいた。何時間も話していたが何を話していたかはさっぱり覚えていない。ただすごく楽しくてその日は寝坊した。